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1973年Kansas City,Missouriで15歳のデビー・ネルソンはローカルバンドのボーカルを務めていた。 その後メンバーの一人と結婚。 そして1975年10月17日、Marshall Mathers IIIが誕生した! この名前は名前は父親から譲り受けられたものである。 EMINEMはこう語る・・・ 「自分が親に似てるなんて全然思わないね。病院で取り違えられたのかもな。」 Marshallが生まれて6ヵ月後・・・ 父親は母のデビーとのトラブルにより、家族の元をい永久に去っていってしまう。 「俺が心配なら連絡してきたはずさ。奴はお袋をクレイジーだと思ってたんだからな。」 「お袋はいつも気分やで突然変わるんだ。」 数年後 デビーは代理人によるミュンヒハウゼン症候群の疑いを持たれる。 精神を病んだ彼女はMarshallが病気だと思い込み、不要な投薬治療を強引に受けさせた。 そしてMarshallはたびたび親戚に預けられるようになった。 そこで母親の弟 ロニーと親しくなる。 「俺たちは親友だったし俺にとって唯一の、身近な家族だった。」 5歳になると、Marshallとデビーはミシガン州デトロイトに移住 「俺は歓迎されなかった。」 Marshallは移住したあ後、近所のいじめっ子に襲われた そして学校でも・・・ 小学4年になると、Marshallは毎日上級生からの暴行を受けるようになっていた。 「学校に行く度殴られた。トイレで俺は、殺されかけたんだ。」 と思い出しながら語る。 1983年の冬、学校の休みの時間のことであった。 Marshallは激しく殴られたため、10日間の昏睡状態に陥ってしまった。 こうした何年にも及ぶいじめの体験が後にMarshallの原動力となるのである。 1984年Marshallと母親は再びカンザスへ移住した。 そしてロニーと再会。 Marshallとロニーはいつも一緒に過ごすようになっていた。 「すぐにまた仲良くなったよ。俺の親友だった。」 ロニーはその頃、ラップに夢中だった ドラムマシーンで曲を作り、Marshallに聴かせていたという。 「すげぇと思ったよ。」 9歳の頃にそのロニーの流したテープがMarshallの人生を変えることとなった。 1987年,またもMarshallとデビーはデトロイトに移住した。 「ロニーと離れてからラップを始めたんだ。マネゴトだと思われたくなかった。」 13歳になると、Marshallは自分の曲をレコーディングし始め、Eminemと名乗る。名前の由来は頭文字のM&Mを取ったもの。それを発音するとEminemとなるのだ。 そして彼は学校の友人達とラップ・コンテストで賞金を稼いだ 「評判は人それぞれだったね」 15歳、彼は高校で後の妻となるキム・スコットと出会った。この頃からKimとよく交流があり、親密な関係へとなっていくいことになる。 後に初めてのラップグループを結成。二人組だった。当時のことを振り返る 「ラップしか頭になかった。」 とEminemは語る。 17歳で高校を中退 Eminemはローカルラジオ局でパフォーマンスをした。 が、評価はまずまずだった。白人にしては上出来だと・・・ 「ラップで食っていく」という夢を決して捨てなかった。 1992年の夏、ロニーはデトロイトへEminemを訪ねて来た。その時遂にEminemはロニーにラップスターへの夢を語った。 しかし、ロニーはEminemにラップを辞めたことを伝えた 「ラップは叶わない夢だったとロニーは言っていた。でも俺は諦めたくなかったんだ。」 その年、Eminemはデトロイト最大のHipHopクラブに出演し始める。初ステージではブーイングの嵐だった。 「正直に言うと初めて出たときは笑われたよ。」 が,Eminemはくじけず、毎週末ラップコンテストに出場した。 「出場する度に手応えを感じていったんだ。」 努力は。報われた。彼は大会で勝ち始めるようになったのである。 「夢に向かって努力し続けたんだ。」 名を広めるため、Eminemはデトロイト最大のHipHopラジオ局 WHYT に出演した。 「デトロイトでは誰もが聴いてるラジオ局なんだ。大きなチャンスだった。 しかし、1993年 12月13日、デビーは友人の家にいたEminemに急に電話してきた。 「彼女が電話で泣いてるんだ。わけを尋ねると・・・ロニーの死を聞かされた。」 ロニーは自殺を図ったのだ。親友であったEminemはうつ状態に陥ってしまい、部屋にこもり、ロニーのラップテープを聴き続けた。 「何度も考えたよ。俺に連絡をくれれば思い留まったかもしれないと・・・。」 Eminemは曲作りを投げ出し、ラップを辞めた。 そんな中、1995年3月にキムはEminemに妊娠したことを伝えた。 そして、1995年12月25日―ヘイリー・ジェイドが誕生した。 「ヘイリーがいなければ今の俺はない。娘には俺みたいな思いをさせたくなかった。娘の誕生で俺は目が覚めたんだ。また頑張ろうと思えるようになった。」 Eminemは新たな決意を胸に再びラップを始め、アンダーグラウンドシーンに旋風を巻き起こした。 すると、Eminemは小さなレコード会社から契約を求められた。 「後はアルバムを作るだけだった。」 彼はレコード会社側から売れ線志向の曲を求められた。 「ポジティブな曲が多かったね」 1996年秋―Eminemのデビューアルバムがリリース 「順調だと思ったよ。だが違った。悪夢さ。」 アルバムは全く売れず、何の収入も得られなかった 「転落の始まりだった。」 Eminem、キム、ヘイリーはアパートから追い出された。Eminemは娘のオムツを買うお金さえもなかったのだ。 そのため、キムはヘイリーを連れEminemの元を去っていってしまった。 「俺は家族どころか自分自身さえ養えなかった。」 その後Eminemは娘に会うことを禁じられた 「彼らにとって俺はルーザーだったんだ。」 「失う物は何も無かったよ。もう沢山だった。」 精神的に苦しんでいたEminemはドラッグにより倒れるが、一命を取り留めた。 「俺の中のクソを、全てぶちまけた。・・・Slim Shadyだ。」 1997年1月、Slim Shady誕生。トイレでう●こをしていたとき、急に思いついたのだという。 「エゴのかたまりさ。誰もが持ってる一面だと思うんだ。運転中に道を塞がれ、キレて怒鳴り散らしたりする。それが・・・Slim Shadyさ。」 その後、Slim Shadyは新しい曲を書き始めた。 Slim Shadyの歌詞はEminemの過去を標的にしたものであった。 「思い浮かぶ歌詞は全て Fuck You だった。あらゆるものに対してね。それが自分だと気づいたんだ」 その後10ヶ月間に渡るクラブでのパフォーマンスの末、遂にEminemはアメリカ最大のラップ・コンテストへの出場を勝ち取る。 それは1997年 10月24日に行われた 「The Rap Olympics」 というものであった。 しかし6回戦の後、Eminemはバトルに敗れる。本人はこの勝負に納得していない。差別されたのだ。 だが大きなチャンスを手にした。彼はプロデューサーDr,Dreに会う機会を得たのだ。 「どう振舞うか悩んだよ。俺は大ファンなんだ!!って態度をとるか、クールにしてるかね。」 Dr.Dreは彼の新しいレーベルのAftermath RecordsでEminemと契約。その一週間後、Eminemはアルバムのレコーディングを始める。 Eminemはアルバムを娘に捧げた。 1999年2月23日 The Slim Shady LP がリリース ビルボードで初登場2位、グラミー賞でのBest Hip Hopアルバムなど数々の賞を取り、素晴らしいデビューを遂げた!
by msmd
| 2006-08-31 19:31
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